金眼の悪魔
この国には悪魔がいる。
それもとびきり美しい、永遠の命を持った悪魔が。
悪魔の居城の中を、アスフォデルは音もなく走っていた。
この日は、月の浮かばぬ夜。
城の中には溶いた墨を垂らしたような漆黒の闇が広がり、燭台に灯る僅かな明かりだけが、辛うじて壁や廊下の輪郭を浮かび上がらせていた。しかし、その灯りが一つ、また一つと消えていく。
浅黒い肌をしたその女が灰色の分厚い衣を揺らす度、傍にある燭台の火が一瞬で煙へと変わる。
今宵、その火が再び灯ることは無い。灯火管理の若い衛兵はすでに永劫醒めることのない深い眠りの中だった。
やがて、最後の灯りが消えたとき、アスフォデルは硬い 鉄扉の前に立っていた。そこは城主の寝殿へ導く通路を閉ざす門。アスフォデルは鼻孔を広げ、大きく息を吸い込んだ。
——居る。この奥で間違いない……こいつはアリストロシュの匂いだ。
一介の召使に扮し、この城に潜入してから一年。毎日何処に居ても匂ってくるその香りを今更間違うはずもなかった。それはあの女が毎日必ず髪に付けている香油から立ち上ってくる匂いだ。頭の芯が痺れそうな程に甘ったるい奢侈の残り香。
——一瓶あればそれだけで村が半年は食っていける。それを、ああも惜しげもなく使うとは……。
その瞬間、頭にカッと血が上った。しかし、彼女はすぐに意識を集中させ、開きかけた瞳孔を無理やり閉じた。
——落ち着け。ここまで来て奴に気取られるわけにはいかない。
だが、冷や水を浴びせたはずの頭の中に、かつて失った輝きが再び浮かび上がることを止めることはできない。彼らは皆一様に、こちらを向いて笑っていた。アスフォデルと同じ陽に焼けたアーモンド色の肌を持つ、素朴で柔和な家族の残照。
——父さん、母さん、アルム兄さん……マルグリット。
父と母は村のしがない小作農だった。アルムは五つ歳の離れた兄で、人一倍小麦の束を担いで歩けることが自慢だった。そして、マルグリットは四つ年下の妹だった。我儘盛りで、よく駄々をこねては母や姉のアスフォデルの手を煩わしていたが無垢な笑顔が家の中を唯一お日様のように照らしてくれいていた。
だが、今は誰もこの世にはいない。十年前、彼らは皆アスフォデルの目の前で殺された。この城の悪魔——アリストロシュ——の手によって。
アスフォデルは束の間閉じていた目を開いた。そして、鉄扉に付けた耳を離すと、素早く門を開錠して通路に侵入した。その門に門番は居ないこと。鍵はいつも鍵番が持っているが、寝る時には決まった置き場所に保管していること、そしてその場所が彼の部屋の扉のすぐ脇にあること。全てが伝えられてきた情報の通りだった。
復讐の計画は何年も前から緻密に、そして周到に立てられてきた。奴によって大切な者を奪われ、人生を踏み躙られてきた女たちの間でそれは長きにわたって密かに進められてきたのだ。
この国を支配する金色の瞳を持つ高級貴族たち。彼らは俗に言う“魔法”を使いこなし、持たざる者たちを長い年月従え続けている。彼らの力はあまりにも強大で、民草はただただ彼ら貴族たちの言いなりになるか媚び諂うことしか出来ず、辛酸をなめてきた。
この領地を納める侯爵もまたその一人。そして、その妻アリストロシュは真の貴族たちの中でも抜きんでた美貌と魔法の才能を併せ持っている。
アスフォデルが初めて彼女の姿を見たとき、そのあまりの美しさに息が出来なかった。万年雪の峰々に咲き誇る白花を思わせる眩い銀髪を糸のように垂らして歩く淑やかな佇まい。春の黄昏にも似た淡く濡れた山吹色の瞳。そして、白磁のように滑らかな若く健康な肌と古代の石象に彫られた女神たちの如き麗しい顔。一目で、それが自分とはかけ離れた存在なのだと分かった。
物々しい兵隊たちに囲まれた彼女は、埃っぽい村の空気にまるで似合わぬ雰囲気を纏ってそこに立ち、その目はしっかりとアスフォデルの顔を見据えている。アスフォデルはどきりとして、思わず手に持っていた桶を落とした。そんな彼女の様子を見兼ねてか、はたまた最初からそうするつもりであったのか、アリストロシュは真っ直ぐに近寄ってきた。
「ねえ、あなたのお名前を教えて下さらないかしら?」
その瞬間、アリストロシュの黄金の瞳が妖しく輝くのをアスフォデルは不快な気分で見つめていた。その感情が一体何処からくるものなのか、その時にはまだ分からなかった。
ただ目の前で見た彼女の面差しが思いの外若く、まるで自分とそう変わらない年齢のように思えた事が不気味に思えたことだけは確かだった。
「えっと、わ、わたしは——」
言い終わる前に、言葉は引っ込んでいた。アスフォデルの声を聞くや否や、いきなりアリストロシュの表情が歪に崩れた。
「なんだ。女の子か」
そう呟くと、彼女は残念そうに踵を返してアスフォデルの前から立ち去って行った。今更悔やんでも仕方のない事だが、惨劇を止める機会があったとすればきっとそれはあの場面だったに違いない。だが当時の彼女には、胸を食むようなその焦燥の正体などまだ分かろうはずもなかった。例え分かったとしても、それを実行するあらゆる手段を持ち得なかった。
そして、今アスフォデルはその時と同じ胸の高鳴りを感じながら慎重に通路を歩いていた。見つけた明りを丹念に消しながら、彼女は闇を背負って進み続ける。だが、曲がり角に差し掛かった瞬間、ぴたりと足を止めた。彼女は息を殺して足元の暗闇に目を凝らした。すると、俄かに陰影に変化が見られた。
——見張りがいるのか。
アスフォデルは影から目を離さずにゆっくりと腰に差したナイフを抜いた。今の彼女ならば、迷いはしなかっただろう。
あの日も腰には雑草を払う為の鎌をさしていた。アスフォデルは息を止めると、一切の音を出さず曲がり角から身を躍らせた。
そこに居たのは二人の兵士だった。真夜中の当直に嫌気が刺していたのか、二人は欠伸を噛み殺して間抜けな表情で壁に映る自分の影を見ていた。だが次の瞬間にはその壁に自分の血が吹きつけられるのを垣間見ることとなった。それは瞬き一つ程の合間の出来事である。
アスフォデルがいきなり鈍色の刃を宙に閃かせたかと思うと、二人の男の喉から勢いよく鮮血が噴き出た。辺りに生臭い匂いが立ち込めだしたが、音だけはけっして漏らさないように、彼女は両腕で二人の男の口を押えつつ体を支えると静かにその場に横たえた。
——今なら殺せた。例えこの命と引き換えになったとしても、今ならば……。
当時はつぶらだった茶色い瞳には暗い影だけが覆い被さっている。奥歯を強く噛みしめると、目深に被ったフードの奥から閃光のような痛みが走った。だけどそれだけが、その日の喪失を物語る唯一の証。そして最後の縁であった。
「アスフォデル!」
ふと、耳の奥に懐かしい彼の声が蘇った。
——ジャスマン……。
あの日、くぐもった高い声が村の中心からこだましていた。
「アスフォデル!」
自分の名前を叫ぶその少年の腕には枷が嵌められていた。
「ジャスマン! ジャスマン!」
アスフォデルは咄嗟に叫び返していた。
「止めなさい!」
近所の叔母が飛び出そうとする彼女の腹を抱えた。
「あいつは男にしか興味ないんだ。女の子のあんたが出てったって殺されるだけさね」
そのとき、諭すような言葉の裏に冷静な声の響きを感じ取った。それは長年飽きる程見てきた略奪の光景をただ黙って見過ごし続けてきた人間のもつ特有の諦念であった。
「アスフォデル! 助けてくれ! 俺は城になんて行きたくない!」
空を劈くような少年の悲鳴が夕闇に沈む村に響き渡った。
「なんでなの!? なんでジャスマンが連れていかれるの!?」
アスフォデルにはそれが何かはっきりとは理解できなかった。彼は何も悪いことなどしていない。ただ日々変わらぬ野良仕事を彼女や他の村人がそうするように同じようにこなしてきただけだ。善良とは言えなくとも、悪行を働くような少年ではないはずだ。叔母は溜息を吐いた。
「生まれ持ったもんの所為だよ。あの子の顔がちっとばかし他の子らよりも綺麗なもんであの城の悪魔の目に止まっちまったのさ」
「あ、悪魔……?」
アスフォデルは思わず叔母の鉤鼻を仰ぎ見た。子供の目線だと顔を見ようとするとまず真っ先にそこに目が行くのだ。
「ああ、そうさね。金目の悪魔様だよ。あいつは昔っから男食いで有名でね。夫が戦で留守にするとすぐに領内の村に出掛けて気に入った男を片っ端から攫っちまうのさ。それも若い男子ばかりをね」
“金目の悪魔”
その言葉が彼女の脳裏に深く焼き付けられた。
「まさか……」
唖然として外に視線を向けようとすると、叔母が彼女の体を抱え上げようとした。
「ほら、お家に帰んな。あんたんとこの男共は幸運にも普通の見目で助かったんだ。逆立ちしてもどうにもならない事にいつまでもかかずらわってんじゃないよ」
だが、そのときするりとアスフォデルの体が腕からすり抜けた。
「あっ! お待ち!」
叔母が慌てて手を伸ばそうとするが、すでに姪の背中は遠くに過ぎ去っていた。
「ジャスマン! 行かないで、ジャスマン!」
大声で彼の名を呼ぶと、周りから兵隊たちが集まってきた。彼らは手に持った槍を両手で構えると、その矛先を容赦なく彼女の方へと向けた。
鼻ずらに突き出された槍の先端を前に、慌てて立ち止まると彼女はそのまま尻もちを着いた。
「アスフォデル!」
間近で声がした。顔を上げると、ゴテゴテした鎧の奥にジャスマンの顔が見えた。
「ジャスマン!」
名前を呼ぶと、彼の表情が少しだけ綻んだ。しかし、すぐにその目がはっと見開かれたかと思うと、まるで彼の姿をアスフォデルから隠すようにして女が目の前に立ち塞がった。
黄昏に沈んだその美貌は、まるで冬の山のように冷たく恐ろしく思えた。
「金目の……悪魔……」
《試し読み版 / 終》