帝都乙女ノ恋奇譚
つん、っと鼻につく。
ニスの匂い。
茶色い窓枠。
そこにはまる極彩色の玻璃を覗き込めば。
そこは別天地。
道のど真ん中を走る鉄のレールも、その横を闊歩する人力車も、ハットを被ったオジサンたちも、黒っぽい色のもの全てが天の色を帯びる。
常ならざる、常。
——そうそう、これこれ。
私は色硝子から透かして見たこの街の景色が好きだ。
だって、こうしているとよっぽどカフェーで働いているって気がするじゃない。
珈琲の入った陶器を運んだり、ライスカレーの盛った平たいお皿を運んでいるよりもさ。
「翠子さん。そろそろお店開くよ」
年上の女給の声が焦げ茶色の床に当たって私の顎を打った。いてっ。
振り返ると、家で出されるあのお茶とおんな~じ色の和服を身に纏ったキツイ表情の先輩と目が合った。
彼女は無言だけど、まあ言いたいことはよく分かる。
そんなこれ見よがしにテキパキとエプロン掛けなくても十分伝わってるって。
「すみません。すぐに仕度します」
私はまだ小袖に行燈袴の外行の格好のままだった。
このお店では和服にエプロンが習わしだ。
でも、いいじゃん。
私、この服気に入ってるんだし。
叶わなかった女学校生活への未練を脱いで、私はお母さんみたいな和服の上からバカみたいに白いエプロンを掛けた。
鏡を見ればそこに居るのは、普通の女給。
顔は、まぁ、そこそこだと思うけど……地味なのよね。なんか華が無いのよね。
半年前には珍しかったその姿も、このお店に慣れてしまえばどこぞのお手伝いさんと変わらない。
あー、つまんない。
溜息。
どうせ、店に来るのはいつもと同じ。
中学に通っている利発そうな男子も、ハットを被った紳士も、いくら肩で風を切って歩こうが結局見慣れちゃえばただの人。
「はぁ……」
当てが外れたなぁ。
と、分かったのは最近だ。
店に来るのは大体がお金持ちかお金持ちの子供たち。
この人たちは、上ばっかり見ててついぞ女給の私の方を見ることは無い。
下を見るような人は余計に目すら合わせてくれない。
次に多いのが、文士?
何かいつも三、四人で来て珈琲一杯で長居しては演説をぶっている。
異国の人の名前やら謎めいた文句を沢山垂れ流しているけれど、店の人は誰も気にしない。向こうも気にしていない。
私も、気にしない。
あとは、ぱっと見でそうと分かるお上りさん。
ちょっと垢染みた毛糸なんかを首に巻いていれば、すぐに分かる。もしくは、仰々しいくらい派手な洋服とかね。
遠路はるばる、何しに来たのか知らないけれど、多分お里に土産話として持っていくために取り敢えずあの泥みたいな苦いお湯を啜ってしかめっ面して帰って行く。
皆コレ頼むけれど、コレのどこが美味しいんだろ。
たまに飲んでみるけど……うっ、やっぱ不味い。
そして残った出し殻は得体の知れない奴ら。
自称画家。自称作家。自称芝居役者。自称学者。自称ほにゃららら。
文士たちが一目も二目も置いているらしいけど、私の目には唯の人にしか見えない。どころか、なんかいつも勘定をツケで済ますしていくし、人としてもどうなのかってカンジ。
あーあ。硝子越しの街の風景くらい素敵なヒトが来るかと思ってたのに……。
ほんと見当はずれだったわ。
家に帰ればさっさと嫁入りの支度をしろと親が五月蠅い。だから、私はここに来た。
父の言うなりのヒトなんてどうせ骨ばかりが太い軍人さんか肉の分厚い旧旗本と相場は決まってる。
ああ、やだ。そんなのは。
ああいう人たちって、なんか存在が汗臭いのよ。いっつも飢えてる犬ってかんじで、必死過ぎて一緒に居ると息が詰まるの。こっちまで血生臭くなるのは御免よ。
だけど、そろそろ限界かも……。
苦肉の策で、花嫁修業の一環という名目でどうにかカフェーで働くことを許されたけれど、現実はまっこと厳しかった。
私のお眼鏡に適う殿方とはついぞ出会えぬまま。
来月で十八だ。
それを過ぎたらいよいよもう腹を決めなければ、父は無理やりにでもどこかへ私を追い出すに違いない。
チリン――。
鈴が鳴った。
お客さんだ。
柱時計はまだ鳴っていない。
今日は随分と気の早いこと……。
「いらっしゃいませー!」
エプロンのヒラヒラをぴっぴと摘まみながら、私はなるべく陽気な声を張る。
旦那さんもといマスターが言うには、この店には気難しい人が多くいらっしゃるからなるべく明るい雰囲気を醸し出して欲しいのだそうな。
へいへい。それくらいは朝飯前でござんす。
先輩女給は台所に入っていてこちらには来ない。私が出迎えろという無言の圧を感じる。
……へいへい。
私は鏡を見て作り笑いを浮かべる。
表には華やかさと愛嬌を。
屈託は純白の前掛けの裏に締まって。
コツコツと下駄を鳴らして入口へ向かうと、壁にほっそりとしたシルエットが映えた。
文字通りの昼行燈に照らし出された影が濃くなると、残暑の風が香る空気が一転、水辺のように涼しくなった。
学士のような詰襟姿のその男性は、女性のように薄い唇をほんのりと弓なりに引いた。
目が合った。
私はとっさに息を止めて、彼の瞳の色を凝視した。
異国の人みたいな、ううん、それとも違う。海のように深く蒼い瞳。
「少し早いが、よろしいですかな」
そのヒトは、澄んだ声でそう唱えた。
それはあまりにも心地が良くて、声がいつまでも耳の奥でこだまする。まるで寄せては返す波のように。
ヨロシイデスカナ。
「ヨ、よよよよよ、よろしくてございまする!」
あわわわわわわっ! お、おちおちちつけ!
彼は笑みを深くした。
皺の無い頬に屈託のない筋が刻まれる。
「では、珈琲を一杯頂けるかな」
「は、はいっ!」
返事をするのがやっとだった。
もう自分でも分かるくらい、顔が火照っている。
墨で描いたような真っ黒い前髪の下に蒼い瞳。
耳触りの、すこぶる良い声。
錦絵に描かれているかの如き、細い面と赤い唇。
やばい。
立ち居振る舞いからすると、年の頃は恐らく二十の半ば。
……適齢ね。
——よしっ! ついに来た!
それはまさしくお店の硝子越しに見た街の風景そのものだった。
常ならざる、ヒト。
——間違いないわ! このヒトこそ、私の思い描いていたヒトだわ!
私は心の中で何度もお天道様に向かって合掌した。
——ああ、やっぱりカミサマは見ていてくれた!
「翠子さーん。サボってないで早くこの珈琲運んでちょうだーい」
よろこんで!
《試し読み版 / 終》
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