帝都乙女ノ異聞奇譚
星の見えない月の夜。
潮の香と、鉄錆の匂い。
「なんだ、おまえら?」
湿った磯風に腕を曝した沖仲仕風情の男は、不審そうに目を尖らせた。
男の目の前には二人の人物。
双方、外套の下に白い詰襟、黒の帯袴。裾から覗くは木魚の如く艶めくブーツ。
学士風情が揃いで着流す当世風。
「ここは青二才が来るような所じゃねえぞ。とっとと引き返して家に帰んな」
凄む男に動じぬ二人は、揃って紅の唇を弓なりに引いた。
「ああ、そうするよ」
コロリと転がる鈴音のような澄んだ声。
細指で返した鍔付き帽子。そこから溢れ出でたる二組の茶色い三つ編み。
男は思わず息を飲んだ。
色ガラスの伊達眼鏡を外した少女の目は燃えるような紅の瞳。
「仕事が終わったらね」
続いて呟きたるは西洋人形と見紛うばかりの美麗な少女。
どことなく気だるげな視線からは壮絶な色香が溢れ、若葉のような翡翠の瞳は冷たい光を放つ。
「し、仕事? ……いや、お前ら、いってえ誰なんだ?」
男の目がかっと剥き出しになると、三つ編みの少女が歯を出して笑った。
「“知らざあ、言って聞かせやしょう”」
少女は流れるような手つきで腰から鈍色のリボルバー拳銃を抜いた。
螺旋の彫られた鉄の筒を覗き込んで、男は唾を飲みこむ。
刹那、少女の赤い瞳が血のようにどす黒く変じた。
「あんたの死神だよ」
* *
淡い月光が降り注ぐ夜空に乾いた破裂音が響き渡った。
「なんだ?」
「さあな」
赤煉瓦の倉庫で作業していた二人組の男が咄嗟に手を止めた。
「一応外見てくるか」
「そんな暇あるかよ。もうすぐ出航だぜ」
鉢巻を巻いた若い男が外に出ようとするのを眼鏡をかけた青年が呼び止めた。
「でもよ……」
「なんかありゃ、港湾警察が駆けつけてくるだろ」
「まぁ、それもそうか」
それを皮切りに二人はまたトロッコに荷を詰め始めた。
しかし、青年は内心焦っていた。
——おいおい、計画よりだいぶ早いぞ、大丈夫なのか?
青年は深夜作業の日雇いで稼ぎに来た学士と表向きは名乗っているが、実のところ彼は学士ではない。
——予定じゃ俺と接触してから行動開始のはずだよな。
「にしても、こんな深夜に海に出て大丈夫なのかねー」
密かに冷や汗を流す青年をよそに鉢巻の男がのんびりとぼやいた。
彼はどうやら退屈を紛らわしたいらしく先ほどからしきりに青年に話しかけている。今しがた外に様子を見に行きたがったのも大方仕事をサボる口実を作りたいからだろう。
「さあな」
「どこ行きの船だっけ?」
「知らんよ。どうせ南方の島だろ」
「へえ、いいなー。俺も南の島に行ってみてえぜ。一年中冬が来ないんだろ?」
「止めとけよ。年中クソあちいだけだぞ。雪が恋しくなって帰りたくなるのがオチだ」
「お前、若いのに夢がねえなー」
「何言ってんだよ。あんたと俺、そんなに歳変わらんだろ」
「バカ言え、学士様と違って俺はこの道もう十年なんだよ。とっくに年寄りみたいなもんだ」
「へっ、俺だって別に好きで学校行ってんじゃねえよ」
「贅沢なこと言うもんじゃねえ。学校出ればいいとこ入って出世できんだろ? 良い親持てたことに感謝しやがれってんだ」
「あんたは違うのか?」
「家は代々沖仲仕。一枚の渡し板を後代に継いでもうすぐ百年だ。だけど、俺はそんな家から追い出された身の上でな」
「へぇ、何やらかしたんだよ」
「なんてこたねえよ。帝都に憧れて十四で家を出たんだ。親父に殺されそうになったけど、どうにかはうはうの体で逃げ回ってよ……」
「そいつはまた突っ走ったもんだ」
「ああ、だけど結局こんな仕事してる。都に行けば俺も一角のもんになれると思ってたんだけどな」
「安心しな。学士になったところでそんなもんにはついぞなれやしねえ」
男はふと怪訝になって青年の方を見た。
「あんたは将来何になるつもりなんだ?」
青年は、答えなかった。
「悪い。ちと、もよおしちまった」
「ああ? 便所か?」
「ああ、すぐ戻るから仕事しててくれ」
「しゃーねーなー。帰ってきたらその分働けよー」
「ああ、すまんな」
そう言って、青年は倉庫を出た。
そして月明かりの影を踏みながら、彼は御不浄とは反対方向に歩き出した。
しばらくすると、すぐ近くでドサッと、大きな物音がした。
咄嗟に物陰に隠れて音のした方を見ると、誰かが血を流して倒れていた。
——無茶しやがる……敵に悟られたらどうするつもりだ。
そのとき、青年の首筋にヒヤリと冷たいものが触れた。
——うっ……!
一瞬で顔面が蒼白になった。
気付けば、喉元に青白い光を放つ刃がそっと当てられていたからだ。
——嘘だろ。気配なんて全然しなかったのに……。
「おい、シノ。そいつは違うから止めとけ」
藪から棒に若い女の声が頭上から降ってきた。青年は視線だけを横に向けた。すると、緑色の瞳がこちらをじっと見据えていた。
餅のように白い肌。闇に溶ける黒い髪の毛。そして、血のように紅い可憐な唇。
——お、女の……ガキ?
そのとき、俄かに少女の表情が不機嫌そうに歪んだ。
「チセ。こいつ気にくわない」
「だめだ。そいつは身内だ。さばいたら後で大目玉だぞ」
「……ちっ」
シノと呼ばれた少女はしぶしぶ刃を引っ込めた。ようやく生きた心地が蘇った青年は、ゆっくりと後ろを振り向いた。
すると、そこには緋色の目をぎらぎらと輝かすおさげの少女が拳銃を手にしたまま佇んでいた。
その姿を見て、青年は不安そうにきょろきょろと辺りを見回した。
「な、なぁ、あんたらだけか?」
その言葉にチセが反応した。
「ああん? そいつはどういう意味だい?」
「だから、あんたら二人だけなのか? 他に味方は誰も居ないのか?」
「ああ、そうだ。これで勘定は足りてるよ」
——本気か!?
青年が唖然とすると、シノが怪訝そうに眉根を寄せた。
「ねえ、チセ。こいつ何なの?」
「間者だよ。敵の居所教えてくれる手筈になってたろ?」
「なんだ」
シノがさも詰まらなそうに溜息を零す。
一方、青年は戦慄していた。自分の顔が割れているということは、この二人がこの計画の重要な関係者であることに間違いはない。
「じゃあ、上の差し向けた刺客ってあんたらの事なのか?」
青年が呆気に取られると、チセは不機嫌そうに片方の目を見開いた。
「あんたにはこいつが木彫りの土産もんにでも見えんのか?」
チセは拳銃のトリガーに指を突っかけると、くるくると回し始めた。
まだあどけなさの残る少女が持つにはあまりに不釣り合いな鉄の玩具を見つめて、青年は息を詰めた。
そして、そっと静かに、眼鏡を外した。
「……じゃあ、俺がホシの居所を伝える相手はお前らで間違いないんだな」
眼鏡を外したその顔は端正だが、よく見ればそこはかとなく年季の入った趣が肌に滲んでいる。
《試し読み版 / 終》
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