四月。わたしはまんまと高校生になった。
紺色のセーラー服。白いリボン。袖と襟のラインは三本。
うん。いたって普通。
朝食代わりに、昨日お父さんが剝いてくれたリンゴをかじっていると、テレビから色々なニュースが流れてくる。
子供の貧困がどうとか、同性婚が合法化されたとか、世界ではこんな紛争が起きているだとか。
今を生きるので精一杯のわたしにはどうでもいい話。世間の気を引きたいだけのくだらない話……。
「おおっ! 優子、似合ってるなぁ、かわいいぞ!」
突然、横から大声を浴びせられた。鏡を直視していたからすぐ横に相手が居たのに気が付かなかった。なんか、不意打ちみたいでいらっとする。
「お父さん、大げさ。ってか、それ何度目? 制服なんて入学式で散々見たでしょ」
「何度見たってかわいいもんはかわいいだろ。ほんと、天国のお母さんにも見せてやりたかったなぁ」
「それも三回目だし」
まあ、べそはかかなくなっただけ前よりマシか。
「もう朝飯食ったか?」
「食べたよ」
「もう行くのか?」
「行くよ。あと五分で」
「その髪、切らなくてよかったのか?」
中学の三学期から伸ばし始めた髪はうなじを超えて背中にまできた。でも、別に切っていないわけじゃない。前髪とかはたまに自分でちょこちょこ整えてやらないとどんどんぼさぼさになっていく。
だけど、お父さんにそれを説明するのなんて無意味。
「これでいいの。伸ばしてた方がお金かからないでしょ」
「ハンカチは持ったか?」
「持ったよ! っていうか、さっきから何なの、姑みたいにチマチマチマチマと!」
お父さんはくたっとしたスウェットの襟からのぞく首筋をぽりぽり掻いた。
「ごめん、でも心配なんだよ」
「心配なんて要らないよ」
わたしは鏡台のライトを消して、バックパックを背負った。メリカルで見つけたサウスフェイス。男物だけど丈夫で長持ちしそうだし、セーラー服とのギャップ狙いに見えるから多分悪目立ちもしない。
「今日は夕方には帰るけど、バイトあるから遅くなるよ」
ローファーを足につっかけてドアノブに手を掛けると、お父さんが「ちょっと待て」と言った。
「なに?」
振り向くと、お父さんが私の方に使い捨てマスクの入った箱を差し出した。全部で二十枚入り。
「こいつも持ってけ。一昨年買いだめしといたやつだけど」
「……いや、いらんけど」
「遠慮しないで持ってけよ。お前花粉症なんだろう? そんな布マスク一つで足りるわけないだろ。家ん中でも着けてるくらいなんだからさ」
わたしは思わず口元に触れた。さらさらとした感触。何度も洗って使えて、丈夫な布のマスク。
「いいよ。鞄に入らないから……それじゃ、行ってきます!」
わたしは逃げるように玄関を飛び出した。
* *
ようやく午前の授業が終わると、わたしはまっさきに屋上に向かった。誰にも内緒のお昼の定位置だ。
入学後しばらく、わたしは校内をあちこち周って昼休みにひとりになれるところを探した。
最初に目を付けたベランダは野球部とサッカー部に占拠されてた。体育館裏では、なんかガラの悪そうな上級生が先生に怒鳴られていた。トイレは長居するには居心地が悪い。保健室は、病人と教室に入りたくない生徒の領域。
図書室は案外人が多くてひとりきりってわけにはいかない。
他にも、音楽室や美術室、視聴覚室、会議室などなど考えられる所は全部周った。だけど、どこにも人が居て、わたしがひとりで居られる場所はなかった。そうやって探し歩いてようやく辿り着いたのが屋上だった。
屋上に通じる階段の前には使わない机がバリケードっぽく並べられていたけど、それを乗り越えるともう障壁になるようなものは何もなく、ロックを外して取っ手を回すと扉はあっさりと開いた。
今日の空は少し黄色味掛かった色をしている。
たぶん、杉花粉。
わたしは階下から見えないような場所で腰を下ろすと、エコバッグからお手製のお弁当を取り出した。
昨日揚げたカラアゲからまだ香ばしい匂いが立ち上ってくる。
「うーん、良い匂い」
ちなみに、こうして空気を肺一杯に吸い込んでも別にくしゃみなんて出ない。わたしは花粉症ではないからだ。
「それじゃ、いただきます」
さて、まずは卵焼き。うん、これはいいかんじにフワカタ。お次はウインナー。めんどくさいからタコさんじゃない。
この歯ごたえ。やっぱちょっと高くてもシャウエッソンね。
花の女子高生になったってのに、いきなりぼっち飯かましてる女の子なんてきっとこの学校じゃわたしくらいのものだろう。
でも、別にいい。学校には勉強をしに来ているのであって、青春を謳歌するために来ているんじゃない。
モラトリアムなんて、わたしには贅沢品だ。ただでさえわたしが高校に入学して家計は火の車なんだから、自分で頑張らなきゃならない。
「ごちそうさまでしたっ」
お弁当を食べ終えて、マスクを着けると、突然ふっと頭上から影が落ちてきた。
誰かいる!?
驚いて上を向くと、青い瞳と目が合った。
「あ、こんなところに居たんだ」
見上げた先は屋上の入口の屋根の上。相手はそこからわたしの顔を覗き込んでいた。
東洋人離れした瞳の色。校則違反級の金色ショートヘア。
「い、いつからそこに居たの?」
「え? んーっと、お昼終わったらすぐ来たから……さっき、かな」
わたしは無意識にマスクに触れた。ちゃんとあると分かっていても、その存在を確かめないと不安が拭えない。
「何か、用?」
「用はないけど」
「けど?」
相手はちょっと困ったように表情を曇らせた。
「ねえ、もしかして機嫌悪くした?」
「……別に」
「別にって、それ一部の界隈じゃ機嫌が悪いって意味になるんだけど」
「一部の界隈って、なによ」
「テレビが好きな者たち」
「はあ?」
「ちょっとそっち行くね」
そう言うと、相手はひらりとまるで木の葉のような身軽さで屋根から飛び降りた。
「ほっ!」
ほとんど音のしない見事な着地にわたしはびっくりしてその場で固まった。
「ねえ、後ろの席の御小柴さんでしょ。ぼくのこと覚えてる?」
ぼく。
目の前の人物からその言葉を初めて聞いたとき、さすがのわたしも好奇心を刺激されたのを覚えている。それは入学式の後に行われた最初のホームルーム。月並みな自己紹介の時間でのこと。
「ぼくは、日向葉月といいます。八月に生まれたのでお父さんがそう名付けてくれました」
それまで何とも言えない緊張感が漂っていた教室の空気が一変した。みんな一様に「ぼく?」と言いたげな顔で首を傾げ、葉月と名乗った生徒の顔を凝視していた。だって、どっからどう見ても女子生徒にしか見えない。セーラー服だし、たおやかな肩の稜線や細ぉい指の形ひとつとってみても、どう見たって女の子だ。だけど一方で、わたしはすぐに興味を失った。
ああ、そういうのでみんなの興味を惹こうとしてるのね。なんだ、この子もモラトリアムを楽しむ余裕がある子なんだ。そんな風に思っただけだった。だけど、次の言葉は強烈で、わたしも皆と同じように驚愕することになった。
「実はぼくには呪いが掛けられていて、今年のスーパームーンの夜。つまり十一月の満月になったら次の世界に転生することになっています。よって、みんなとはあとぉ……えっと、八ヵ月くらいしか会えません。ちょっと短い間だけどそれまでどうぞよろしくお願いします」
日向葉月は実に丁寧に深々とお辞儀して自分の席に座った。つまり、私の目の前の席に。
「なるほど!」
教壇の前で固まってた先生が急にそんな言葉を口走った。一体、何がなるほどだったのかその場の誰にも分らなかったけど、先生はすぐに「あれだな。なろう系ってやつだな。先生は面白いと思うぞ」という風にナンセンスなことを言った。
けどまあ、当然誰もそんな言葉にごまかされはしなかった。
自己紹介が終わるや否や、わたしの目の前の席にクラスメイトたちが一斉に集まってきた。
「ねえ、日向さん、さっきのどういう意味?」
「さっきのって?」
「だ、だから、スーパームーンとかさ」
「あと、転生とか、そういう……」
「そのままの意味だけど?」
「ほ、ほほ本気なの?」
「え、うん」
そんなやり取りの後、野次馬たちは誰からともなく日向さんとの記念撮影という体で、ポロン、ポロンっとスマホで写真を撮って帰っていった。その間わたしは、彼女のすぐ後ろに座っていた所為で、日向さんのついでに皆から声を掛けられることになってめちゃくちゃ迷惑だった。わたしは友達なんて作るつもりなかったのに、初手で台無しになった。
《試し読み版 / 終》
第一章「そして私は日向葉月と出会った」より
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