騎士×妖精の学園ファンタジー小説
ノルン・ド・ノアイユ
<試し読み版>
※節ごとのタイトルはweb試し読み版のみの掲載です。
Kindle電子版、紙書籍版には反映されておりません。
※本編はルビ有です。
第一章 アルルの死
プロローグ
目を開けると、灰色の空が私を見下ろしていた。
ぽちゃぽちゃと可愛らしい水音がそよ風に乗って聞こえてくる。
瞼を擦った掌からは土の匂いがした。
頭がぼんやりとして、まるでまだ夢の中に居るような心地が抜けず、私は寝転がったまま花壇に咲いている蒲公英に似た花を見た。
「それはあの遥かな山の頂から来たんだよ」
ふいに聞こえたその声は、私の頭の中だけに響いていた。
言われてみれば、確かにその花はまるで雪が生まれ変わったみたいに真っ白だった。ぼうっと花を見つめていると、急に身体が小刻みに震えたような気がして、私は咄嗟に息を殺した。すると、鼓動のリズムとは明らかに異なる振動が私の肌を揺さぶった。目を瞑ると、地面が微かに揺れているのが分かる。そして、地草の擦れる音に乗って歌が聞こえた。
重たい頭を振って、ゆっくりと起き上がると、突如視界が一面の白い花々で覆われた。ホタルブクロ、ハンゲンショウ、白百合、アネモネ……。見渡す限りの花壇は白い花で埋め尽くされ、曇天の下で光輝いて見えた。どんよりとした灰色の空が割れて、光がこの庭に差し込んでいるのだ。
まるで雲の向こうに居るお日様がこの歌に引き寄せられているかのようだった。
今の私のように。
立ち上がるとすぐに、白衣を身に纏った女性が楽しそうに踊っている光景が目に飛び込んできた。
一心不乱に身を翻すその姿はとても優美で、それでいてなぜか荘厳な雰囲気が漂う。私は白い日差しが額を焼いているのにも気付かずにその儚い姿に魅入っていた。
すると間もなく踊り手が動きを止めて、こちらを向いた。
その目の焦点が私の顔の辺りで結ばれた瞬間、青白い顔がくしゃっと崩れて、頬に朱が差した。
彼女は慈愛に満ちた笑みを浮かべると、何か言葉を発して、こちらに手招きした。
——私を、呼んでいる。
私は嬉しくなって急いで彼女の下に駆け付けた。踊り手の姿が目の前に迫り、一気に視界が明るくなる。見上げると、手を差し伸べられた。私は躊躇わなかった。
踊り手は私の体を引っ張り上げると、またあの歌を歌いながら踊り始めた。私も見様見真似で彼女のステップに合わせ、身体を弾ませた。伴奏は彼女の歌だけだったが、不思議とそのリズムは私の体にすんなりと馴染んでいく。
そのときだ。
“きゃははっ”
私たち以外に人気の無いはずの庭園で楽しそうな声が上がった。私は驚いて動きを止めた。
すると、いきなり羽の生えた小人のような生き物があちこちから現れたのだ。
「なに、あれ……?」
「あら、あなたにも見えるの?」
声のした方を見上げると、翡翠のような深緑の瞳が私を見下ろした。
私はなぜか堪らなく嬉しくなって、大きく頷いた。
わたしにも、みえるよ——。
* *
ゴトッと頭が何かにぶつかって、少女は微睡から顔を上げた。すると、馬車が揺れて後頭部が壁に当たって弾かれた。
じいんと痛みだした頭を手で摩りながら、少女は窓越しに差し込み始めた青い光を見つめた。
もうじき、夜が明ける。
——夢か……。
少女はずっと握りしめていた懐中時計を見つめ、おもむろにその蓋を開けた。金属の擦れる鋭い音が鳴ると、針の止まった時刻盤が姿を現した。
外装にも内装にも小さな傷が所々に付いており、いかにも年季が入った趣である。とっくの昔に時を刻むことを忘れた時計を握りしめて、少女はその蓋の裏側を虚ろな目で見つめていた。
そこにはたった一つの言葉が刻まれていた。
”ノルン”
そのとき、馬の嘶きが聞こえた。故郷が近いことを本能で察したのであろうか。嬉しそうでありながらどこかに切なさが含まれている、そんな声だった。
もう一度馬が鳴くと、少女は外套の布を頭から被り、馬車が俄かに速度を増す中、また目を閉じた。
——どうせなら、こちらが夢ならよかったのに。
第一章 アルルの死
1.今日から私は公爵令嬢
その石畳の道は遥かな古の時代に敷かれたという。
割れたブロックの隙間から伸びた雑草が人馬の足の届かぬ路肩に向かい倒れ、今なお道としての姿を少しも損なってはいない。
道はこの王国の都から南方の異国まで続く長大なものだったが、その道幅は狭く、馬車が二台も並べば通行が危うくなる。それ故か、道沿いの村々では、その文化的あるいは地政学的な重要性などまるで頓着されず好き勝手に呼称されていた。中でも、王都から歩いて半日ほどのある村では「葡萄酒通り」と呼ばれていた。その名の通り、村がある周辺の道沿いには広大な葡萄畑が広がっていた。
しんとした夜の凍った空気がその葡萄畑一帯を包み込む中、鳥たちがひそめくように鳴き合っている。
秋の収穫を終えた葡萄畑では、寒々しく枝だけになった細木が律儀な歩哨のように立ち並び、まるで骸骨が列をなして佇んでいるかのようだ。
そこを今、一台の馬車が通り過ぎようとしていた。
馬は黒いたてがみから湯気を上らせ、筋張った茶色の脚で石畳を一定のリズムで鳴らしながら歩いていく。そして、その後ろを車輪が音もなく転がっている。
馬車は畑の前をあっさりと過ぎ去ると、葡萄酒通りをどこまでも進んでいった。
その様子を、剪定の準備の為に家から出てきた村人の男が訝しい目で見つめていた。男は朽葉色のチュニックの上からさらに麻布を羽織り、何度も手を擦り合わせては、はぁっと息を指に吐きかけている。
——このくそ寒い中、何処に行くんだべな。この先にある家といえばあのお屋敷一つくらいのもんだが……。
この見渡す限り一面の葡萄畑は全て大貴族ノアイユ公爵のものだった。
そのお屋敷はこの道をまっすぐ進んだ先にある。そして、村人が知る限りではこの先で人の住む家があるとすればそれだけだった。
ノアイユ家現当主は高齢で、すでに王宮勤めからは半ば引退した身となっていたが、未だに王室や議会に大きな影響力を持っているという。その威光を象徴するように屋敷は優雅さと剛健さを兼ね備え、しかし不思議と威圧感よりも懐の深い居心地の良さを見る者に感じさせる。
——あんな偉いお方のお家にあんな怪しい馬車が、いってえ何の用だべ。
男は暫く訝しんでいたが、間もなく馬車が道を曲がって見えなくなると、寒さに身震いして、興味の失せた表情で畑に向かいとぼとぼ歩いて行ってしまった。
やがて、馬車は件の屋敷の前に辿り着くと、そこでぴたりと止まった。次の瞬間、ぽっと橙色の灯が朝靄に滲んで、ゆらりと揺れた。かと思えばまるで幽鬼のように馬車の周りをぐるっと回った。
すると、急にコーチのドアが開いた。そのとき、遂に闇のベールを裂いて、朝陽が世界を照らした。
ランプを手に持った御者が慌てたように扉の奥に向かって手招きした。薄闇の中、馬車が微かに揺れる。
御者が目を見開くと、中から少女が1人、シルバーブロンドの短い髪を揺らして、スカートの裾を持ち上げながら拙い足取りで降りてきた。
その目は気怠く、生気がない。その反面、地面に降り立った脚は細いながらも土に根を張る樹木のように妙にしっかりとしていた。
御者はその姿を少しだけ感心したように眺めた。一見すると、髪が男子のように短いので勘違いしそうになるが、明るい所で見ればやはり少女であることが見て取れる。それも出るところに出れば、中々に見られる容姿をした少女だ。
しかし、背筋を伸ばした様にはまるで色香がない。それどころかまるで紳士のように、足を揃えてピンっと伸ばしている。
御者は眠気を払うように頭を振った。彼は目の前の奇妙な少女について何も知らされてはいない。しかし、何かワケアリである事は一目で分かった。こういう仕事をしていると、そんな人や荷に偶に出くわすが深く関わって良かった話など聞いた事が無い。むしろ、逆だ。
彼は少女が降りたのを確かめると、荷物を渡して、そそくさと御者台に登った。
すると、パシっと鞭打つ音が辺りに響き、馬が寂しそうな声で嘶いて、地面を踏み鳴らしながらまた元来た道を戻って行ってしまった。
一方、その場に残された少女は馬車に揺られているうちに固まった足をほぐすと、草の上をゆっくりと歩き出した。
すると雲間から差した陽光が、彼女の両の瞳を光らせた。それはこの国の誰もが珍しがるであろう、青灰色と鮮やかな緑色のオッドアイ。
その両眼に、ふいに小さな影が過った。
少女が空を見上げると、虫の羽が生えた小人のような生き物が見えた。
——なんだ、妖精か……。
そのとき、無造作に出した足がスカートの裾を踏んでしまった。
「うわっ!」
少女は呆気なく足を縺れさせて、地面に尻もちをついた。
すると、持っていたトランクがあさっての方にとんでいき、パタンっと地面に落ちた。
「大丈夫ですか!?」
いつの間にかその場に居た召使風情の女が慌てたように少女の元へ駆け寄ってきた。
彼女は少女に遠慮する間も与えずに、テキパキと体を起こしてやり、素早く服についた汚れを払い落とした。
少女は気恥ずかしさ故か、俯く顔は少し赤らんでいた。
「すみません、でした……」
その声は少女自身でも驚くほど掠れていて弱々しかった。
「いいえ、かまいませんわ。ところで貴方様がシャロン家の”ご子息様”でいらっしゃいますね。私はこの屋敷に使える侍女です」
そう告げられ、少女はハッと目を見開いた。赤くなっていた顔が、今度はさっと血の気が引いたように白くなっていた。
「ご安心ください。主人より全て伺っております」
そう言って、侍女は完璧な微笑みを浮かべた。
作り笑いであることは分かっているのに、見ていると思わず無条件で心を許してしまいそうになる。そんな笑顔だ。
それを見つめている内に、少女の頭の中は段々と冷たく冴え渡り始めていた。
——そうか。侍女とはいえ、この人は余程公爵から重く用いられているに違いない。そうでなければ私の事情を知るはずがない。
少女はひとり納得しながら、侍女の案内に従った。齢は二十歳を過ぎて半ばといったところだろうか。艶のある、紫がかった黒髪のこの女人からは、どことなく妖艶な雰囲気が漂っていた。
——なんていうか……いっそ完璧すぎて、嘘くさい。
先ほどから一瞬も崩れることのない笑顔も、一つ一つが洗練されたその所作も、侍女として全てが完璧だった。けれどそつがなさすぎるというのも、逆に不自然だ。
——こういう人は食えない。あまり、こちらのことをべらべら話さないようにしよう……まあ、私から話すことなんて、何もないけど。
侍女について考えているうちに、屋敷の玄関まで来た。
扉を開けてくれ、入るよう促されたとき、少女は束の間、屋敷の境界線の前で足を止めた。
——ここまで来れば、自然と体が現実を受け入れるのかと思っていた。だけど、そんな都合のよいことはないのだな。
少女は、まるで小さな宮殿のような邸宅を見上げて溜息を吐いた。
——私などが本当に淑女になれるのだろうか。
内心吐露した少女の言葉には自嘲が込もっていた。
そして躊躇いがちにおぼつかない足取りのまま、静かに一歩、少女は屋敷へと足を踏み入れた。ぶかっとした踏み心地に少々驚いた少女は思わず足元の茶色い絨毯を見つめた。人が多く行き交うであろう玄関だというのに何とも毛先が長く、高級そうな絨毯が石の上を覆っていた。するとふいに緊張が背筋を走り、少女は小さく身震いした。
「主人はこちらです」
立ち止まっていると、侍女に階段の先に進むよう促された。少女は我を取り戻し、緊張をひた隠しにしながら階段を上がっていった。
屋敷の中はまだ日が昇り始めたばかりだというのにとても明るかった。侍女が案内する道を先回りするように燭台が明々と火を灯している。
やがて、応接間らしき部屋に導かれると、そこで初老の夫婦に出迎えられた。
「失礼いたします」
少女が挨拶をして部屋に入ると、夫と思しき男性が、夫人を支えるようにして立ち上がった。
「よく来てくれたね。私はノアイユ家当主のカルムだ。それから、こちらは妻のソフィア」
カルムと名乗った男性が、穏やかに微笑んだ。
一方、少女は白髭を蓄えた一見柔和そうな男の顔を緊張した心持で見つめていた。
——この方が、王の侍従長を務めていたという、あのノアイユ公爵……。
現国王の侍従長として、長らくその任に就いていたが、少し前に退き隠居の身となったと聞く。
しかし、未だに国の諮問機関である国務院の中で強い発言権を持っていると噂されている。
——将来、王に反旗を翻しそうな輩は、この男の手で片端から摘み取られたのだと聞く。そのために手段は選ばず、かなり容赦のない御仁であったらしい……。
少女は改めて、目の前で柔らかく微笑んでいる公爵をまじまじと見つめていた。すると公爵の隣に静かに佇む夫人が、ゆっくり口を開いた。
「妻のソフィアです。この日を楽しみしていました。どんな子が来るのだろうと……。まさかこんなに可愛らしいお嬢さんだなんて。お洋服選びなんてはりきってしまうわね」
落ち着いた声音で話すと、夫人は人当たりの良い笑みを浮かべた。一つ一つの所作がゆったりとしていながらも、洗練されている様は淑女の鑑と言ってもいい。
——この人が公爵夫人か。若い頃はあまり目立つ方ではなかったらしいけど、社交界に入ってからは常に周囲から一目置かれていたという……。
「はは。ソフィアは気が早いな」
公爵が相槌を打つ様子を眺めながら、自分が名乗る間を見計らっていた少女は今だと思った。
少女はすっと浅く息を吸って右足を引くと、右手は腹部に添えて、左手を横へ水平に差し出した。
「まずは、名無しであることの非礼をお詫び申し上げます。この様な形になってしまいましたが、ノアイユ公爵閣下にお目にかかれて光栄です。本日よりお世話になります」
高くも低くもない中世的な声音が、室内に凛と響いた。そして挨拶の字句を述べた少女は、ゆっくりと顔を上げた。
すると呆気にとられた夫人の顔と、面白そうに笑んでいる公爵の顔が目に入った。
——ん? なんだ、この間の抜けた空気は……はっ!
しまった、と少女は思った。今しがた行った礼は、それはそれは美しかった。だが問題が一つあった。それは、男性貴族が行う礼の作法だったのだ。
途端にカァアア、と耳まで顔が赤くなった。少女はゆっくり姿勢を解くと、軽くスカートをつまんで持ち上げた。そして腰を曲げてお辞儀をした。
しかし、先程までの自信に溢れた礼とは打って変わって、その動きはなんともぎこちなかった。
「……し、失礼いたしました」
「まあ、気にしなくていいさ。事情はレユシットから聞いているよ。まずはゆっくりやっていこうじゃないか。それに、君の名前の件もね、こちらで考えてやってくれと言われているんだ」
レユシットという言葉を聞いた瞬間、少女の手がピクッと揺れた。それを公爵は見逃さなかったが、かまわず続けた。
「さて。ゆっくり話したい所だが、長旅で疲れたろう? 部屋へ案内させるよ……パルフェ」
「はい、旦那様」
先ほど出迎えてくれた侍女が素早く反応した。
「一応言っておくが、彼女には君の事情を話してあるんだ。君の身の回りの世話は機転が利く聡い者でなければ務まらないからね……では、頼んだよ、パルフェ」
「かしこまりました」
パルフェと呼ばれた侍女がカルムに頷くと、少女の方に振り向いた。
「お嬢様、まずは旅路で付いた埃を払いましょう。どうぞこちらへ」
少女は案内された部屋に入り荷物を置くと、すぐに備え付けられた浴室に促された。パルフェの手でようやっとコルセットを外してもらうと、呼吸が楽になった。
剥がされた衣服を回収した侍女が、お辞儀をして浴室から出ていくと、少女はすでに湯が張られている浴槽をまじまじと見た。
——浴槽に入るなんて、初めてだ。
恐る恐る足を入れて、ゆっくりお湯に身を沈めていく。ふぅ、と息を吐くと、ようやく気を落ち着かせることができた。
今は最も寒いとされる時期なだけに、足先はとうに冷えきっていたが、徐々に温かい湯が身体の芯まで沁みてきて、少しずつ指の先に血が通う感覚が戻ってくる。お尻に手を当てると、石膏のようにカチカチになっていた。馬車で何日も旅したのはこれが初めての事だったが、もう二度と御免だと少女はしみじみと思った。
湯船から上がると、すぐに先ほどの侍女が水気を拭き取ってくれた。そして、慣れた手つきで少女の身支度を整えてくれた。一般的な令嬢に比べると、ギリギリ肩にかかるほどしかないその短い髪を、それでもきっちりと丁寧に梳いてくれる。
——くすぐったい……。
気恥ずかしさに負けて、少女は俯いていた。
そうして一通りの身支度を終えると、侍女が改めて挨拶をしてくれた。
「改めまして、私は今日よりあなた様の身の回りのお世話をさせて頂くことになりました、パルフェと申します。少しでもご不便がおありでしたらいつでもお申し付けください」
パルフェは相変わらずにこにこと完璧な笑みを向けてくる。少女も無難な笑顔を作ると、
「……ありがとうございます」
そう言ったきり、少女は口を閉ざした。
——身の世話は任せても、心までは開くつもりはない。侍女など所詮は主人に金で買われて動く人形のようなものだ。カルム様がどういうつもりで私を引き取ったのか、まずはそれを確かめないといけない。
2.新しい名前
部屋で休んでいると、程なくしてカルムに呼ばれた。
——ようやく、来たな。
執務室に入ると、案内してくれたパルフェは席を外すよう告げられ退出していった。少女に椅子へ座るよう促しながら、カルムも向かいの椅子に座った。
「どうだろう、少しでも寛ぐことはできたかい?」
「はい。何から何まで、ありがとうございます」
「かまわないよ。あたたかい紅茶はいかがかな? これは私のお気に入りなんだ」
そう言ってカルムが、テーブルに用意してあったティーポットに手を伸ばすと、お茶を注いでくれた。
公爵自らお茶を注いでもらうことに恐縮しつつ、紅茶を差し出されると、早速少女が口をつけた。すると花の蜜のような、甘くて優しい香りに包まれた。
たとえ茶葉の種類に疎くとも、誰もが一口で高価なものだと気付くに違いない。しかし、本人はそれを自慢するでもなく、ただ客をもてなしているだけという態度を崩さない。
——これが本当の金持ちというやつか。いつだか会った北方の街の領主とは雲泥の差だな。
「よかった。これは苦味が少ないから、ミルクを入れても美味しいよ」
「はい。それにこれは、なんというか……ちゃんと味がします」
少女の回答に、カルムがくっくっ、と肩を揺らして笑った。
「用意して正解だった。アストワルの茶葉は香りはいいんだけど、味に深みがないからねぇ。違いがわかるなんて、たいしたものだよ」
ノルンは普段飲んでいたお茶の味を思い出して、内心溜息を吐いた。
——それだけいつもは苦いだけの安物を飲んでいたということか……。
「これはどこの茶葉なんですか?」
「ジャワールだ」
「ジャワール……もしかして、あの東方の帝国のことですか?」
「よく知っているね」
「えぇ、私も東の生まれですから。警戒を怠ってはおりませんでした」
少女が神妙な表情を浮かべると、カルムは可笑しそうに笑いだした。
「ははは、あ奴は昔から変わらぬ。相変わらず敵はいつでも東から来るとそう思っているようだ。あんな砂漠の向こうの国のことまで子供に教えているのだな」
「そ、それだけではありません。父は……何か異国の山々に感心がおありのようでしたから、自然と東方からやってくる文物にも興味を持つようになっただけです」
少女はカルムの意味深な視線に気が付いて、いつの間にか険しくなっていた表情を慌ててほぐした。
「ふっ……すまない。君の父親を侮辱したわけではないんだ。ただ、君と話していたらつい懐かしくなってね」
「はぁ、それはどういう意味なのですか?」
「いや、君はどことなくあ奴に似ているような気がしてね……やはり親子なのだね」
微笑むカルムの好々爺然とした姿に、少女は少しだけ緊張の糸が緩んだ心地がした。
それから暫くはお茶を飲みながら他愛のない話をした。
スカートに慣れないことや侍女に髪の毛を梳いてもらうのは恥ずかしいと話す少女に、カルムは少し複雑そうな顔でくすっと笑った。
カルムはといえば、隠居の身になってからは好きだった歴史の研究に精を出しているらしい。そして現役の頃は忙しくしていた分、今は夫人との時間を大切にしているのだそうだ。
それから、たった一人のご子息を戦争で亡くしていることも話してくれた。
「……先の戦のことは、聞いています。ひどい戦いだったと」
「そうだね。本当に、ひどい戦だったよ。多くの若く優秀な騎士達の命が散っていった」
ここ、アストワル王国は十五年前まで、東部の国境沿いにあるリーヌ川を挟んだ新ウィスタール帝国と戦争をしていた。それは、領土拡大を狙う帝国側が、王国へ侵攻を始めたことが発端であった。そして、未だ終息には至っておらず現在は休戦状態である。
「休戦協定から十五年膠着状態だ。国境近辺の領地では今もピリピリしているけど、中央では軍備に投入する資金減額の声も挙がってきていてね……っと、つまらない話になるところだった。最近はとんと、若い人と話す機会がなくていかん」
そう言いながらカルムが苦笑した。
「いえ、つまらないなんてことはありません」
「そうかね。君が落ち着いているものだから、まだ十代のお嬢さんであることを忘れそうになっていたよ」
”お嬢さん”と自分を指すその言葉に違和感を抱いて、少女は曖昧に微笑んだ。そんな少女を見て、カルムは彼女のこれまでの境遇に思いを巡らせた。
「少しずつでいいさ。これまでの習慣や価値観を、急に変えようなんて土台無理な話だ。受け入れられるようになるまで、焦らないでゆっくりやっていこう」
それがカルムの心から気遣った言葉であることはわかった。しかしどう答えれば良いのか分からず、少女は小さい声で「はい」と返すのが精一杯だった。
「そうだ、名前のことなんだがね。念の為確認しておこうと思ったんだが、私たちで決めてしまってもよかったかね?」
「……あの、そのことなんですが。もし差し支えなければ、希望が、あります」
「ふむ。もちろんかまわないさ。どんな名だい?」
「……ノルン」
「ノルン、か。不思議な語感だ。アストワルの言葉ではなさそうだね……」
「私も言葉の意味はわからないのです。ただ、これ……」
少女が首から下げていた、銀色に光る装飾品をカルムに見せた。それはとても古びていて、所々錆びついてもいた。
「これは……時計だね」
「はい。もう壊れていますが」
少女がカチっと蓋を開くと、蓋の裏には文字が刻まれていた。
「……これは、アストワル語ではないな」
「はい。ただ幼い頃、これはノルンと読むのだと、母に教えてもらいました」
「ふむ。このような文字を何かで見たことがあるが……確かそう、ヴェルダの古い文字に似ている。この時計はどこで?」
「詳しくは、わかりません。元は母が持っていた物なのです。聞きたいと思った時には、もう母はいませんでしたから」
つまり形見ということか、とカルムが内心で納得した。
「……わかった。君がそう希望するなら、名はノルンとしよう」
「よ、よろしいのですか……?」
自分から希望しておいて矛盾していると思ったが、どんな意味かもわからない言葉を、本当に名乗っていいのか不安になった。なぜならここは由緒正しき公爵家であり、これからはその公爵家の人間として名乗ることになるのだ。
正直、少女は怖気付いていた。
「はは。そう難しく考えることもないさ。それは君のお母様がずっと持っていたものなんだろう? 何より……君がその言葉を大切に思っているのだとしたら、理由は十分ではないかね?」
「……っ。あ、ありがとうございます、公爵閣下」
「その、公爵閣下はちょっと固すぎるなぁ。カルムと名前で呼んでくれてかまわないよ。その方が私も嬉しい……いいかね、ノルン?」
「あっ、はい。それでは、カルム様とお呼びさせて頂きます」
「あぁ、遠慮なんてしなくていいよ。君は今日から私たちの娘なのだからな」
そのとき、ノルンの心臓がドクンっと一際大きく鳴った。
「あの、それで……カルム様が私をお引き取りになられたのは——」
そのとき、突然コンコン、と扉をノックする音が響いた。
カルムが入室を促すと、パルフェが部屋に入って来て、食事の用意ができたことを告げた。
「ん? 今、何か言いかけていなかったかい?」
ノルンは、咄嗟に口を噤むと、ふるふると首を左右に振った。
食堂に向かうと、すでにソフィアが待っていた。カルムとノルンが席に着くと、三人での晩餐が始まった。ノルンにとって誰かと食を共にすることは、久しぶりのことだった。
話題豊富なソフィアと、冗談を言って笑わせるカルムとの食事は穏やかなものだった。
「まあ。もうお名前を決めたのね」
「この子の希望で、ノルンという名に決まったよ」
「ノルン……聞いたことのない響きね。でも、なんだか素敵。特別な感じがするもの」
「そうだね。少なくともアストワルでは聞かない名だしね」
「ふふ。早速、呼んでみたいわ。ノルンさん」
「あっ、は、はい」
「ふふ。少しずつ、慣れていきましょうね。あ、そうだわノルンさん。来たばかりですけど、明日は王都にお買い物に行きません? これからの生活に、入り用な物を揃えなくてはならないでしょう? お洋服もたくさん買いましょうね」
ソフィアが目を細めて嬉しそうに話すものだから、ノルンは素直に頷くしかなかった。本当は母親以外の女性とどう接すれば良いのかわからず、気が進まなかった。けれど、楽しみだわ! とソフィアの顔がパッと明るくなるのを見て、ノルンも少しだけ明日が楽しみになった。
食事が終わると、夫妻とおやすみの挨拶を交わし自室へ向かった。すでに寝支度の準備が整っていた。
「それではお嬢様、ごゆっくりお休みくださいませ」
部屋まで付き添ってくれたパルフェが退室すると、寝間着に着替えた。
——お嬢様、か……。
ノルンの瞳に影が差した。けれどすぐに、その陰鬱とした気分を払うように首を横に振った。
そしてレースやフリルがあしらわれたワンピースに袖を通すと、瞬間、肌がアワ立った。
——うわぁ……すごい、ひらひらしてる……。
思わずその場でくるっと回ってみると、裾がフワッと広がった。
体の動きに合わせてスカートが揺れる、その感覚が楽しくてもう一度回ってみる。
肌を擦れる感触も、サラサラとしていて気持ちいい。
鏡の前でひとしきりワンピースの感動に浸ると、ノルンはベッドに倒れるように寝転んだ。なんだか可笑しくて、くすくすと笑った。
ふかふかの布団に沈んだ体が重い。思えば今まで随分と眠れない夜を過ごしてきた。何よりも、馬車に揺られての旅の疲れは想像以上に溜まっているようだった。
——あぁ、結局聞けなかったな……カルム様はなぜ私などを引き取ったのだろう。
それは今日までずっと抱き続けていた疑念であったが、屋敷に着いてみると、それはより純粋なものに変わっていった。なぜ二人がこんな風に親切にしてくれるのか、ノルンにはまるで分らないのだ。
これまでノルンに向けられてきた周囲の人間の態度は、嫌悪や憎悪。そして無関心だった。時にはまるで異物を見るかのような目で見られることもあったし、そこには時に同情も含まれていた。
正妻に嫌われた妾の忘れ形見に加担する人間など余程の変わり者だけだろう。それも、相手があの女ならなおさらだ。
ノルンにとっては、生まれたときから他人に疎まれるということはむしろ当然のことだったのだ。しかし、それでも決して慣れるということは無かった。幼い頃に母が他界してからは尚の事……。
だから、無条件に他人から優しくされたり気遣われるということがノルンにはどうしても信じ難い事なのだ。
——明日になったらわからない。あの人たちだって、優しくしてくれるのは今だけなのかもしれない……。
眠気が限界に達したノルンは、やがて意識を手放した。しかしずっと首にかけていた、銀の懐中時計からは決して手を放さなかった。
——これは、きっと夢だ。目が覚めたら、また母様の居ないあの冷たい家の中だ......。
3.初めての王都
「っくしゅっ!」
くしゃみとともに目覚めたノルンは、ゆっくりと上体を起こすと、途端にぶるっと震えた。
見慣れない室内を見回してベッドから抜け出すと、寝ぼけた足取りで窓辺まで歩いていく。
カーテンを開けると、上ったばかりの太陽がキラキラ輝き、空が青々としていた。そして眼下には、開放的で広大な庭園が広がっていた。
——あぁ……本当に私は、ノアイユ家に来たのだな。
そのとき、ふとノルンは昨日ソフィアと交わした約束のことを思い出した。
——王都なんて、初めて行くな。一体、どんなところなんだろう。
初めて行く場所への興味はあったが、それ以上の感慨がわいてくるでもなく、ノルンは暫くそのまま外を眺めていた。
すると、程なくしてパルフェがやってきた。
「お嬢様、昨夜はよくお眠りになられましたか」
「うん。布団がふかふかで、いつ眠ったのかも分からなかったよ」
さようでございますか、と微笑むと、パルフェはノルンを鏡台の前に促して髪を梳き始めた。
「お嬢様の髪は、とてもサラサラでお美しいですわ。伸びるのが楽しみですわね」
「そうかな。伸ばすのなんて初めてだから、あまり期待はしないでくれ」
「いろんな髪型にアレンジいたしますわ。今から腕がなります」
「いや、別に普通でいいよ」
——凝った髪型なんて、どうせ私に似合うわけがない。
パルフェはちらりと俯くノルンの横顔を盗み見て、目を細めた。
「どうか、今日は羽を伸ばして楽しんでくださいな。奥様も喜ばれますので」
「うん、ありがとう」
朝食を終えると、ノルンとソフィア、そしてパルフェの三人は馬車に乗り込んだ。
公爵が用意した馬車はノルンが昨夜揺られてきた馬車とは比べ物にならない程瀟洒な意匠の施されたもので、ノルンにはそれがとても乗り物だなんて思えなかった。
——この庭といい、何から何までまるで美術品みたいだ。
開いたドアを潜ったノルンは、つやっとした板張りの床に遠慮がちに足を乗せた。すると、車体が柔らかく沈み込むような感覚がして驚いた。
——このコート、外観が上と下とに分かれていたな。もしやそこに何か秘密があるのか。
座席は全て丁寧に鞣した皮を張ったもので、しかも何を塗ったのか分からないが、ピカピカに光っている。
窓の枠にすら、手彫りで細工が施されており、非常に手間暇を掛けて作られていることが見て取れた。
ノルンは最早呆れたようにそれらの意匠を眺めるしかなかった。
——なんという、贅沢品だ。祭りの日以外は麦粥と豆のスープくらいしか口にできない民草のことを思うと、少々乗るのが後ろめたくなるな……。
そのとき、何か小さい虫のようなものが入り口の隙間から入って来た。 普段であれば気にもしないが、ここまで見事な内装を見せられると虫一匹すらも寄せ付けることは憚られた。ノルンが咄嗟に手で追い払おうとすると、それはくるりと宙返りして巧みに避けていった。
ノルンは、はっとしてその生き物の姿を見つめた。
薄い羽が目にも止まらぬ速さで動いているが、その姿は虫とは似ても似つかない。
それは、妖精であった。
「どうかしましたか?」
ぎくりとして振り返ると、不思議そうな表情を浮かべるソフィアの顔があった。ノルンは咄嗟に「何でもないです」と言ってそそくさと革張りの座席に腰かけた。
妖精は誰にでも見えるわけではない。ノルンは自分と母親以外に見える人と会ったことが無かった。おかげで妖精を目で追ったり、話しかけたりすると否応なしに周囲の人間からは気味悪がられた。
やがて母が亡くなり、見える者がノルン一人となると、ノルンは妖精を無視するようになった。一時は、いっそ自分の妄想なのではないかとすら考えたこともあったが、結局何年経ってもノルンの視界からこの妖精の姿が消えることはなかった。
妖精は世界のそこかしこに居て、我が物顔であちらこちらを飛び回っている。そして、いつの頃からかノルンはある事に気が付くようになっていた。
妖精が飛び去った場所には必ず風が吹いてくるのだ。
——やっぱり、いるんだな。
ノルンは風に髪を靡かせながら、しみじみとそう思った。
妖精は気まぐれな生き物だが、人間に悪さをすることはほとんどない。人間に悪さをするのはいつだって人間だった。
馬車が動き出すと、妖精はきゃっきゃと喜びの声を上げて暫くはしゃいでいた。彼らは好奇心が旺盛で、とくに人間が作ったものには目が無いようだった。
妖精にもしも感情というものがあるとすればそれは「喜び」と「快楽」だけだ。
ノルンは飛び回る妖精を忌々しく思いながら、いつもそうしているように意識の外に追いやった。この生き物の為に小さい頃散々嫌な思いをしてきたノルンにとっては、その能天気っぷりが癪に障るのだ。
「そうそうノルンさん。昨日から思っていたのだけど、少々服が大きくはないかしら?」
急に話しかけられて、ノルンは一瞬ぽかんっとした。
「……えっ、あ、あの、急いで用意したもので、ありものを適当に見繕ってもらったのですが」
ノルンの着ている服は明らかにサイズが合っていなかった。袖は指の付け根までかかり、スカートの裾も少し引きずってしまうほどだ。
「そうなの……」
ソフィアはノルンの視線から顔を反らすと、眉根を寄せて目を細めた。服は通常、仕立て屋が一人一人に合わせて布を裁断し、あるいは継ぎ足すなどして寸法を合わせるものだ。余程貧しいのでもなければサイズの合わない服を着ることなどそうそうあるものではない。
——急ごしらえには違いないのでしょうけど、娘にこのような仕打ちをする貴族がこの世に居るなんて……。
ソフィアはノルンの方を振り向いて、笑みを浮かべた。
「今日はきちんと寸法を測って貰いましょうね。着いたら早速、新しい服にお着替えしちゃいましょう」
「着いてすぐ、ですか……?」
「ええ、せっかくのお買い物なのにそれでは歩きづらいでしょう? あ、大丈夫ですよ。今着ている服も、仕立屋さんに頼んであなたに合った服に直してもらいますから」
「そんな、申し訳ないです。それにまだ身長も伸びるかもしれませんし、このままでも——」
「だーめっ、流行は移ろうものなんです。今出ているデザインは今着なきゃ。その辺りは私とパルフェに任せて、ノルンさんは安心なさっていてください」
そう言って微笑むソフィアに、ノルンも返すように笑んでみせた。だが、内心でノルンは笑顔を引き攣らせていた。
——ソフィア様は見かけによらず、押しの強い方だ。
ノルンは内心で溜息をついていた。慣れない人間に囲まれているとやっぱり落ち着かない。
「そろそろ王都に着きますわ」
今まで品のよい姿勢を保ったまま黙っていたパルフェが急に口を開いた。それと同時に、馬車が林を抜けた。
するとその瞬間、窓から見える風景が一変した。
白い山。
ノルンは初めそう思った。
しかし、すぐにそれは誤りだと分かった。
その白い山の天辺は山脈のように不規則な凸凹ではなく、明らかに人為的に並べられた三角の構造物が等間隔に並んでいる。山と見間違ったそれは信じられないほど美しく堅牢な巨壁だった。
ノルンは生まれてこの方、これ以上に大きな建造物を知らない。
「大きい……」
ノルンは王都についてはこれまで人づてに話を聞くくらいでしか知らなかった。きらびやかな街の景色や物凄い数の往来する人々など、話を聞く度に想像はしても、自分には縁遠い場所だと思っていた。
それが今、目の前まで迫っている。ノルンはわくわくして、身を乗り出さんばかりに外の風景に見入っていた。
そんなノルンの様子を見て、彼女もやはり年頃の娘であるのだと、ソフィアは密かに安堵した。
* *
「ふぅ……」
ノルンは周囲に聞こえないくらいの小さな溜息をついた。
王都についてすぐに、ノルン達は中心街にある仕立て屋に向かった。
着いて早々、ソフィアが店の主人と短い会話を交わした後、店内の奥にある部屋に通された。そこでは服のオーダーメイドを相談したり、試着をすることができるのだ。
そして試着を始めてからというもの、次々と服をあてがわれては着替えることを繰り返していた。
——女性の服はなぜこんなにも面倒なのだろう……。
もう何着目になるのか、数える気力も失せ始めたところでつい溜息をこぼしてしまったのだ。そんなノルンにはおかまいなしに、ソフィアとパルフェは服選びに夢中になっている。
——二人とも他人の服選びなのに、なんであんなに楽しそうなんだ?
「ノルンさん、この紺色のドレスなんてどうかしら? ピンクも可愛らしくて素敵だったけれど、シックな色合もノルンさんにぴったりだと思うのよねぇ」
どれも捨てがたいですわね、とソフィアが困り顔をしながら嬉々としてノルンに服を進めてくる。
新たに提示された服を受け取る度に、ノルンはカーテンで隔てられた空間で店の針子に手伝われながら何度も着替える羽目になった。
着替えに心底うんざりしていたノルンだったが、新たな服に袖を通す度に鏡に映る自分の姿に見入った。
そこに映し出される自分の姿はあまりにもこれまでの自分とはかけ離れた姿をしていた。
——これが、私か……。ついこの前までは兄たちに交じって剣の腕を磨いていたというのに。
今しがた渡された服は紺を基調とした落ち着いた色合いに、フリルやレースが上品にあしらわれたドレスだった。ワンポイントに銀の装飾品がつけられる。
あとは髪が伸びれば、もうそれは誰が見ても正真正銘の貴族令嬢にしか見えない。
皮の鎧に身を包み、木剣で試合に明け暮れていたあの日々がまるで嘘のようだ。
——私はもう……アルルではないんだな。
ノルンが着替え終えるとカーテンが開かれ、その姿を見たソフィアから感嘆の声が漏れた。
「まあまあ、ノルンさん! とっても素敵だわ。やっぱり、ノルンさんはシックな色合が似合うわね」
なぜか着ている本人よりも嬉しそなソフィアだったが、ノルンは笑顔を取り繕いながらも内心では納得していなかった。
——そうだろうか? 服に着られているようにしか思えないのだが……。
けれども、ソフィアが満足ならそれでいいと思った。そろそろ着せ替え人形にされることに飽きていた。
「あ、ありがとうございます……」
きちんと笑えているかは自信がなかった。そしてソフィアはといえば、ノルンの礼に頷くと、一目で気に入ったらしく店主に声を掛けていた。
「ノルンさんが今着ているものはこのままで。こちらの緑のドレスと、赤のドレスも頂戴しますわ」
ノルンが元々着ていた服は新たに仕立てられ、後日公爵邸まで届けてもらえることになった。
やっと購入する服が決まり、店を出たノルンは大きく息を吸い込んでゆっくりと吐き出した。
——あぁ! 終わった!
これで帰れる。そう思った矢先、
「ノルンさぁん! 何を立ち止まっているの? 次はあそこよ」
一瞬無表情になったノルンを尻目に、ソフィアは向かいにある帽子屋を指さした。
——ぼ、帽子だと……。この調子では、靴や宝石の類にまで足が伸びてしまいそうだ。
そのとき、急に辺りが騒がしくなった。
「何かしら……?」
ソフィアが顔を顰めると、パルフェがさりげなく二人を背にして往来を眺めた。
すると突然、遠くで男性の叫び声が上がった。
「……っ泥棒だ‼︎」
そのとき、ノルンは大きな鞄を抱えながら物凄い速さで駆けていく男の姿を目撃した。
目で追っていくと、男の後を追うようにして二人の騎士が剣を携えて走って行った。
そしてさらにその後ろから黒い外套に身を包んだ男性が慌てた表情で走ってくる。
「誰か! 捕まえてくれぇ!」
その瞬間、ノルンは弾かれたように駆け出していた。
「あっ! ノルンさん! 待って!」
急に駆け出したノルンに驚いたソフィアが咄嗟に声をかけた。
しかし、すでにその背中はほとんど見えなくなっていた。
「ノルンさん……」
ソフィアは急に起こったことへの混乱と、何やらもう取り返しがつかなくなってしまったような、ノルンへの言い知れぬ不安が胸に広がっていくのを感じていた。
4.油断
視界に丈夫な紳士用の傘が目に入った。
「すみません、お借りします!」
唖然とする傘屋の主人を置き去りにして、ノルンは鞄を盗んだと思しき男を追った。
そして風のような速さで従者や騎士たちを瞬く間に追い越していった。
逃げている男は小柄ですばしっこく、しばらくは大通りを走って逃げ続けていた。だが、追ってくるノルンの姿を見て驚いた男は、急に路地裏へと進路を変えた。
ノルンもすぐに方向転換しようとするが、足に裾が絡まって転びそうになってしまった。
——くっ、ドレスだと走りにくい……。
なんとか走れているが、転ばないよう意識する分思うように走れない。
それでも男から離されることなく追いかけ続け、ついに行き止まりとなる道まで追い詰めた。
そして、壁を背にした男に向かい、ノルンはまるで剣のように傘を構えた。
「もう逃げられません。大人しくその鞄を持ち主に返してください」
そう告げたノルンに、男はニヤッと笑ってみせると鞄を捨てて、懐からナイフを取り出した。
「変わった嬢ちゃんだな。騎士ごっこも大概にしないと怪我するぜぇ?」
そう言うや、男はノルンに向かって走り出し、ナイフを突きつけてきた。
相手は女だ、しかも子供。
——馬鹿な貴族の娘め。逆に召し取って、売っぱらってやるよ!
男は遊んでやるくらいのつもりで切っ先を突き出した。
だが、次の瞬間、男の手からナイフが消えた。
「えっ?」
驚いた男が一瞬呆けてその場に居着くと、そこへ間髪入れずにノルンの突きが入った。
それは男の胸にめり込んで、一瞬呼吸が止まるほどの威力だった。
「……かはっ‼︎」
そして、素早く後ろに回り込んでいたノルンに、傘で強かに首を打ち付けられた。
無様に地面に転がった男は「うぅ……」と唸ることしかできない。
——い、痛てぇぞ。なんだこれ、どうなっていやがる。
男が目を開けると、自分を見下ろす少女の姿がそこにあった。
「この鞄は持ち主に返します」
そう言ってノルンは地面に転がる鞄へ歩み寄った。
男は今しがた起きた事が心底信じられないという気持ちと、年端もいかない子供に無様に打ち負かされたことへの恨めしさが綯交ぜになった目でノルンを睨みつけた。
だが、男はふと何かに気づくとニヤッと不敵な笑みを浮かべた。
——どうしたんだ?
急に男の表情が変わったことに違和感を感じたが、ノルンは構わず鞄に手を伸ばそうとした。
そのとき、男とは違った気配を背後に感じ取った。咄嗟に傘を盾にするように両端をつかんで振り返ったが、次の瞬間、ノルンは勢いよく吹き飛ばされていた。
なんとか受け身をとって地面に転がり半身を起こしたが、見れば傘は真っ二つに折れてしまっていた。
受けた衝撃ですぐに立ち上がれずにいると、目の前に大きな人影が落ちた。
見上げると、そこには自分よりもふた回りほども体格のでかい大男が立っていた。
その大男が現れると、鞄を盗んだ小柄な男が叫んだ。
「遅いぜドニ! こんな痛い思いする羽目になるなんて聞いてねぇぞ!」
「うるせぇな、お前が速すぎんだよ。追うのにどれだけ苦労したと思ってるんだ。だいたいこんな嬢ちゃん一人に何をやられてやがんだ!」
「仕方ねえだろ! こちとら走ることが専門なんだよ。腕っ節なんかねぇの知ってんだろ!」
「はんっ! だから俺が、こうして来てやったんだろうが」
ドニ、と呼ばれた大男がニヤッと笑いながらノルンを見た。
ノルンはくそっ、と内心で悪態をついた。
鞄を盗んだ男の単独犯だと思い込んでいた。だが、どうやら仲間がいたらしい。
「お嬢ちゃん、ツレが世話になったなぁ。面子って言葉知ってる? ちょっとおじさん、君をおとなしく返してあげる訳にいかなくなっちゃったんだよ」
そう言いながらドニがノルンに掴みかかろうと手を伸ばしてきた。
ノルンは男を睨みつけながらも、逃げようと体を必死に動かそうとする。
しかし、
——ダメだ、間に合わない!
5.本物の騎士
捕まってしまうと思った瞬間、みしっと嫌な音が響きわたった。同時に、目の前に迫っていたドニの姿が視界から消えていた。
「ぐっ……!」
呻き声がした方を見ると、ドニがわき腹を抑えて蹲っていた。そしていつの間に居たのか、目の前には見知らぬ青年が佇んでいた。青年は片足を上げたまま、琥珀色の瞳を昏く光らせてドニを見下ろした。
「なんだてめぇ!」
ドニが立ち上がると、すぐさま身につけていたダンビラを抜き取った。すると、青年も静かに腰に身につけていたサーベルを抜き放つ。その所作を見ただけで、ノルンは青年の持つ恐るべき実力を直感した。
ドニの表情にも僅かに緊張の色が走った。
「お前、あの貴族の衛士か? それとも通りすがりの馬鹿か?」
青年はドニの言葉を無視して、剣線をぴったりと相手の喉元に付けた。
「答えやがれ!」
「……互いに剣を構えたのならば最早問答は無用であろう」
そう言われて、ドニは気圧されたように黙り込んだ。
そして、二人は互いに相手を牽制しながら間合いを詰め始め、遂に切っ先が触れるか触れないかの距離になった瞬間、ほぼ同時に踏み込んだ。その一瞬の光景はノルンの目に色濃く焼き付けられることとなった。
同時に振り下ろされたように見えた青年の剣が、ドニの剣を弾きながら一気に峰を相手の肩に打ちつけたのだ。
ドニは崩れるようにその場に倒れ、一瞬で意識を失った。
その間、ノルンは瞬きすることも忘れて目の前の光景に目を奪われていた。
——知っている。私はこの剣技を知っている。でも、見たのは初めてだ。これは”打ち落とし”だ!
相当な修練を積み、戦慣れしていたとしてもこの技を使う者は稀だ。なぜなら相手と呼吸を合わせる繊細で高度な技術と一緒に、剣線に自ら突っ込んでいく狂気じみた度胸がなければならない。
この技の失敗は即、死を意味する。
並みの者にはまず技を使う気すら起きないだろう。
それをあの青年はいとも簡単にやって遂げた。
——すご、すぎる……。
見入ってノルンは地べたに手をついたまま、知らず知らず興奮していた。
そんなノルンの元へ剣を収めた青年が歩み寄ってくると、膝まづいて手を差し伸べてきた。
「大丈夫ですか、レディ」
その手が自分に向けられたものだと自覚できず、ノルンはまじまじと見つめてしまった。
「いかがいたしましたか? もしや、どこかお怪我でも?」
反応の無いノルンを見て、青年が気遣わしげな顔になった。
「あっ……い、いえ、すみません。大丈夫です」
ノルンは我に返ると、急いで地べたから手を離した。その瞬間、左足に激痛が走った。
——っ痛!
どうやらドニに吹き飛ばされて、受け身をとった際に左の足首を痛めたらしい。ノルンの表情が苦痛に歪んだ。
青年はすぐにそれを察して、
「それでは、少々失礼をいたします——」
ノルンは彼の逞しい腕に抱き上げられた。
「……っ! な、ななな何を!」
「突然の無礼、申し訳ありません。しかし、起き上がるのにはこうする方が早いと判断いたしました」
数えで十を越えてからというもの、ノルンは人から抱き上げられることなど一度も無かった。
何しろ騎士にとって自分の身すらも守れないことは恥であると教えられてきたのだから、当然のことである。
——わ、私をまるで、レ、レレレディみたいに……。こ、こんな恥辱、耐えられない!
「下ろしてください!」
「はい?」
「わ、私はレディなどではありません!」
「はぁ。では、何なのです?」
「え……」
青年に見つめられて、ノルンは一瞬頭が真っ白になった。
「それは……その、私はただのノルンです」
「ただの、ノルン?」
青年が首を傾げると、青年の仲間たちが駆けつけてきた。
「お手柄だな!」
一人が声を掛けると、青年は軽く笑みを受かべてその声に応えた。
「どのような事情がおありか知りませんが。少なくとも私の目にはあなたは儚げな一人のレディに見えますよ」
「は、儚げって……私が弱いということですか?」
「いいえ。そんなことは言っていません。むしろ、あなたの行動はとても勇気のある立派なものだったと思いますよ」
「でも、実際には負けて転がされて、危うく捕まるところでした……あなたの言う通り、私の力など儚いものです」
「とんでもありません。土壇場で本当に動ける者はそう多くは無いのです。あなたは敵に立ち向かう度胸と行動力を持っていらっしゃる。そういう者を弱者とは呼びません」
そのとき、ふいに青年の瞳が困ったように揺れた。
「それに……私はあなたに感謝しているのです」
「……どういうことですか?」
「路地裏に入った瞬間、他にも何人かあいつらの仲間がいましてね。そちらの相手をしていたら、来るのが遅くなってしまいました。ですから、あなた様があいつらの足止めをして頂いたお陰で逃げられずに済んだのですよ」
そして、結果的に助けるのが遅くなってしまい申し訳なかった、と青年は心を込めて謝罪の言葉を告げた。
「謝らなくて結構です。結局、私はあなたに助けられたのですから」
ノルンの目に涙が滲んだ。
——悔しい……あんな小悪党共に負かされた挙句、こうして助けられてしまうなんて。幼い頃からの稽古の日々は一体何だったのだ。すると、今にも溺れ落ちそうな涙にそっと指が添えられた。
「なっ!?」
ノルンが驚愕の表情を浮かべると、青年は申し訳なさそうに目を細めた。
「あ、すみません。あなたがあまりにも悲しそうにするので、つい差し出がましい事を……」
「いえ、みっともなく人前で涙を零すところでした。お気遣い感謝します」
青年は内心でほっと溜息を吐くと、
「それと、足の骨は折れていないようですが、早めに手当はした方がいいですよ」
そう言って、彼女をそのまま連れて行こうとする青年の顔を見て、ノルンはふいに疑念を抱いた。
「あの……私のことについては、何も聞かないのですか?」
誰が見ても高貴な出で立ちをした少女が、あのような男たちと相対していたのだ。流石にもっとその素性を訝しがるものだろう。それなのに青年にはちっとも気に留める様子がない。
他人の下世話な好奇の目に曝されながら育ったノルンからすると、逆に無関心な者を目の前にしたときにどうしても違和感を覚えてしまう。
「はい、特にお聞きすることはありません」
「なぜなのです? こういうとき、普通はもっと色々聞いてくるものですよ」
青年はじっとノルンを見つめた。そして、逡巡の後、ゆっくりと口を開いた。
「あなた様は誰よりも早く盗みを働いた者を追いかけ、悪事に対峙した。それがあなた様という人間を端的に表しております。その行動だけで説明は事足りているのですよ」
明瞭な彼の答えはノルンの予想もしていなかったもので、彼女は思わず目を丸くした。そんな割り切った考えを持つ人間に出会ったのは初めてだった。
「ノルン・ド・ノアイユ」試し読み版 / 終
第一章「アルルの死」より